社会は情報化の夢を見ている、ようだ。

社会学者の佐藤俊樹氏の「社会は情報化の夢を見る」を読んでいる。

地域情報化とかいう言霊に半ば自律的に踊らされている現代人と社会を注視しながら、でも夢見させてくれよ!とでも言っているかのよう。

確かに、周りにはその手のフレーズがあふれている。
クラウドが社会を変える」
スマホは我々の生活を一変させた」
・・・
佐藤氏の言うように、よ〜く考えるとクラウドスマホで社会が変わったか??と疑問を抱かざるを得ないし、同時に、いや変えていって欲しいというどこからとも無く湧いてくる願望が自分のなかに台頭するのがわかる。
それだけ技術革新と社会の変化を融合させたある意味分かり易い言葉が少なくとも仕事をしている周辺においては、蔓延し、その意味をあまり検証することなく使っている。
そして「きっと社会は情報化社会になっている」と思い続けている。

う〜ん。
はたしてこの夢はいつまで続くのか。

社会とは、技術とは。
考えさせられる面白い本です。
平易な文章もまたよい。
自治体の電算室や情報政策課の方などに是非読んで欲しい。

私は目から鱗でした。

2012年

かなり遅くなってしまいましたが2012年になりました。
明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします(←誰に向かってなのだろう・・・)。

さて、更新が滞っていたのはタイムマネジメントが下手すぎるわけだからではあるのですが、
子どもと対峙することがこんなに忙しく、自分に時間というものは如何に貴重かを思いしらさ
れております。
とはいえ、子どもが悪いわけでは当然ありませんし、むしろ、今しかない「繁忙期」を楽しん
でいるのです。

朝は子どもの声で目覚め、帰宅すると子どもと風呂であそぶ。
ご飯を食べるときに発せられる舌足らずな「いただきます」。
就寝している時の寝顔。
これら全てに今は仕事以外の時間を費やしています。

耐え難いこともありますし、怒ってしまうこともあります。

それでも、子は宝とは良く言ったものです。
何者にも代え難い「宝」です。
子が出来て、ようやく親の気持ちがわかります。
学習とは当事者になり、周囲の環境が整うことで初めて情報が体系化される、状況的学習論ですね。
こんなどうでも良い事をたまに思い描きつつ、定量的には分析できない「幸福感」を得ております。

さて、今年。
子どもは大切ですが、妻も(親)家族も大切にし、もう少し勉強に時間を割きたいですね。

皆様にとって幸多き一年になりますように。

ワイヤレスネットワークの将来

過日、といっても3日前ですが仕事の研修でSB、KDDIDocomoのワイヤレスネットワーク戦略の概要を聴く機会がありました。
当然三社三様だったのですが、とりわけKDDIの震災以降の取り組みの説明が印象に残りました。これは説明担当者が東北出身であると自身で語っておられたことからも、ある程度属人的要素があることは仕方がないのですが、それでも東京では3.11時以降少しずつ情報環境やそれ以外の生活におけるかなりの部分でパラダイムシフトが起きていることを、直接実感を込められた話を聞く事で改めて実感させられました。
震災においてもいわゆるソーシャルネットワーク系のつながりが震災直後の連絡網として、あるいは被災者支援のためのツールとして有効だったことは記憶に新しいのですが、現在、当時の状況から今後我が国において活かせるであろうソーシャルネットワーク環境の整備について、国初め各所で議論されているようです。
とりわけ、上記の民間事業者のように通信網という基幹的なインフラを担う、半ば公的な役割をもつ企業の意味が問われ出している事も報道等で取りざたされています。
もはや日常のなかに普遍的に埋め込まれているといっても過言ではないデジタルデバイスを介したコミュニケーションですが、公的セクターとともに、民間事業者側で基盤を維持する方策が重要かつ必須なものとなっている事実に基づいて様々な戦略が練られている事は、やはり実際に見たり聞いたりしないと不明瞭な事も多いなあと思っています。
では翻って地方自治体の取り組み、特に被災自治体から遠い自治体においてどのような施策がとられるであろうかという点については、全体的な資料がないのでなんとも言えませんが、遅々として進んでいないのではないか、と疑問を抱かざるを得ません。
よく「危機感」という単語を耳にしますが、良い意味で危機感を如何に醸成するかも、実は地方自治体における機器管理の重要な役割だと思います。
実感がない、というのはイコール想像力の欠如とも言えるわけであり、当事者意識を如何に創っていくかに腐心しなければ、住民間においても3.11を教訓にしようという機運はなかなか盛り上がらないと感じます。
ではどうするか?

やはり勉強と情報収集、そして実行しかないのでしょうね。

不定期日記になっています

昨日は東大木下教授の講演を聴く機会に恵まれ、子どもはかみさんに任せて拝聴してまいりました。

さて、先生ですが、九大藤原先生の研究事業の関係で当地にお越しになったと。
そして、奇遇にも当地について若干ながら興味関心があったとのこと。
そんな前置きから始まり、
文化財史観の変遷、文化財概念の拡張、そして文化資源という言葉の創造・発展に至る経過等をご自身の考えに基づいて分かり易く話されました。

文化資源とはまだあまり耳慣れない言葉です(2000年に木下先生が東大に当該研究学会を設けたのが最初)。
しかし、最近で東日本大震災によって奇しくも文化資源に係る新たな潮流(保存、保護、活用)が生まれつつあり、また自然の驚異を素直に受け止めつつ、経済のみならず感性にまで踏み込んだ形で文化資源という概念が散見されるようになってきています。
文化資源の構成要素は「人、物、場所、地名、記憶・・・」その他。こうした要素を見ると、文化資源とは情報学の分野にも触れる余地がありそうな雰囲気です。
もっとも、木下先生は、こうした文化資源を市民が自ら発見し、評価し、活用すること、によって資源という形あるものが可視化される、というニュアンスで論じておられます。
同時に、文化資源を活用するための様々な試みを先生ご自身も身を投じながら検証されておられ、特に民俗文化資源とでも言えるような無形有形の市井の人々が受け継いできた、あるいは創り出しているモノに関心を寄せておられるようでした。
実は地域社会にはこうした資源が無数にあります。当然ですが、こうした資源に依存して我々の生活は成り立っているわけです。
近年、こうした資源に対して、急激に台頭したICTを如何に有機的に結合していくか、それによって豊かな地域社会が生み出せる(再生できる)のではないか、という議論が国や各方面で行われています。
しかし、私も思うのですが、こうした現実(ICTの台頭)を地域活性化という幻想と融合させるには、先生が実践されておられるように「市井の人々とともに資源を発見し、評価していく姿勢」しかないと思っています。地域情報化の様々な試みも、実はこうした実践(現実と思考、物体と概念の合一?)が行われていると成功裏に終わっている事例を多く見ることができます。

文化資源であれ、地域情報化であれ、とどのつまりは人々の熱意とともに互恵的コミュニケーションによって価値への意味づけを行うこと、という一つの方法論としては極めて近似値のような記がしました。
もちろん、詳細には多くの差異があろうことは想像に難くないのですが、それでも文化資源という考え方が私自身も最近思っていた疑問(美しい街とは何か?など)の解決の糸口を見せてくれたことに大いに感謝です。

とりわけ、先生のご指摘にもあった「資源とゴミは紙一重」という言葉には、ちょっと身震いがします。
我々は実に多くの「資源」を「ゴミ」同然に扱ってしまっているのですね。しかも実は皆少しだけ気づいている。でも実行に移せないジレンマを抱えている。
まあ、このギャップこそ、泥臭い市民生活というか、現実と理想の狭間をどう埋めるのかという人間社会にとって永遠のテーマに行き着くのかもしれません。

とりとめもなくなりましたが、文化資源という概念を上手く活用できれば、きっと地域社会は今よりももっとイキイキとした姿に変容していく可能性が大いにある、という期待を込めて感想の結びにしようと思います。

振り返りの日々

9月も中旬を迎え、慌ただしい日々。

連休はどこに行く出もなく仕事でした。
試験補助だったり、電話番だったり。

新たな道を模索している若者を前にすると、今自分自身が置かれている環境に感謝する気持ちになります。
がんばれ若人!

そして自分自身も、停滞気味の毎日に「なにかきらりと光る一つ」を見つけるべく精進します。

考えることは多いのですがやはりそれを実践できないと何も始まらない。
知行合一
先人はやはり巨人ですね。

巨人の肩に乗るべくがんばらなくては。

通勤途中のひとこま

今朝、いつもの通勤途中の運送会社の前を通ると、5?四方の小さな土地に生えた雑草を20人ほどが除草作業している。

いや、始めは何ごと?と思いました。

だって、狭いところに白い作業服(皆同じ格好)の集団がしゃがんで一斉に草取りをしている。。

すごい光景でした。
ちょっとあっけにとられました。