不定期日記になっています

昨日は東大木下教授の講演を聴く機会に恵まれ、子どもはかみさんに任せて拝聴してまいりました。

さて、先生ですが、九大藤原先生の研究事業の関係で当地にお越しになったと。
そして、奇遇にも当地について若干ながら興味関心があったとのこと。
そんな前置きから始まり、
文化財史観の変遷、文化財概念の拡張、そして文化資源という言葉の創造・発展に至る経過等をご自身の考えに基づいて分かり易く話されました。

文化資源とはまだあまり耳慣れない言葉です(2000年に木下先生が東大に当該研究学会を設けたのが最初)。
しかし、最近で東日本大震災によって奇しくも文化資源に係る新たな潮流(保存、保護、活用)が生まれつつあり、また自然の驚異を素直に受け止めつつ、経済のみならず感性にまで踏み込んだ形で文化資源という概念が散見されるようになってきています。
文化資源の構成要素は「人、物、場所、地名、記憶・・・」その他。こうした要素を見ると、文化資源とは情報学の分野にも触れる余地がありそうな雰囲気です。
もっとも、木下先生は、こうした文化資源を市民が自ら発見し、評価し、活用すること、によって資源という形あるものが可視化される、というニュアンスで論じておられます。
同時に、文化資源を活用するための様々な試みを先生ご自身も身を投じながら検証されておられ、特に民俗文化資源とでも言えるような無形有形の市井の人々が受け継いできた、あるいは創り出しているモノに関心を寄せておられるようでした。
実は地域社会にはこうした資源が無数にあります。当然ですが、こうした資源に依存して我々の生活は成り立っているわけです。
近年、こうした資源に対して、急激に台頭したICTを如何に有機的に結合していくか、それによって豊かな地域社会が生み出せる(再生できる)のではないか、という議論が国や各方面で行われています。
しかし、私も思うのですが、こうした現実(ICTの台頭)を地域活性化という幻想と融合させるには、先生が実践されておられるように「市井の人々とともに資源を発見し、評価していく姿勢」しかないと思っています。地域情報化の様々な試みも、実はこうした実践(現実と思考、物体と概念の合一?)が行われていると成功裏に終わっている事例を多く見ることができます。

文化資源であれ、地域情報化であれ、とどのつまりは人々の熱意とともに互恵的コミュニケーションによって価値への意味づけを行うこと、という一つの方法論としては極めて近似値のような記がしました。
もちろん、詳細には多くの差異があろうことは想像に難くないのですが、それでも文化資源という考え方が私自身も最近思っていた疑問(美しい街とは何か?など)の解決の糸口を見せてくれたことに大いに感謝です。

とりわけ、先生のご指摘にもあった「資源とゴミは紙一重」という言葉には、ちょっと身震いがします。
我々は実に多くの「資源」を「ゴミ」同然に扱ってしまっているのですね。しかも実は皆少しだけ気づいている。でも実行に移せないジレンマを抱えている。
まあ、このギャップこそ、泥臭い市民生活というか、現実と理想の狭間をどう埋めるのかという人間社会にとって永遠のテーマに行き着くのかもしれません。

とりとめもなくなりましたが、文化資源という概念を上手く活用できれば、きっと地域社会は今よりももっとイキイキとした姿に変容していく可能性が大いにある、という期待を込めて感想の結びにしようと思います。