その4

なんだかここまで書いたものの、お上りさんの東京一日取材的雰囲気になってきましたが、めげずにできるだけ書きます。

さて、10時ごろから本格的に仕事が始まります。

と、一応出向当初からたまに時系列の思い出が交錯しますのでご容赦を。

私がいた係は同じ部屋の他の係より業務量が明らかに多かったので、着任早々、前任者(プロパー)から「がんばって下さい・・・」と自嘲気味に激励されました。。

霞ヶ関初日を思い返すと、自身の入庁初日と同じかそれ以上に緊張していました。係の引き継ぎの前に、執務室内で歓迎の宴が催され、自己紹介などして早速仕事、という感じで、引き継ぎ事項が多く、しょっぱなから終電で帰る羽目になり「おお、これが中央官庁の仕事の流儀なのかあ」と妙に感激した覚えがあります。別に頭がおかしいわけではありません。

ちなみに、室の布陣ですが、当時私を含め研修生が4人でほぼ同年代(26、27、28、31歳)、そしてプロパーの係員が一人(28歳)、あとは係長×3、室長補佐、室長補佐2、専門官、室長という陣容でした。課内の室という位置づけでしたので、隣には課長もいたのですが。
あちらで幸運だったのは、とあるきっかけをもとに係員と研修生がえらく仲良くなったことで、仕事の不安はあったものの、かなりの部分で彼らに助けらたことでした(後述)。

と、それはさておき、昼ごろになると、三々五々みな昼食に出かけます。はっきり言って昼食はなによりの楽しみでした。歩いて外にでて、色々なものを食べ歩きました。
寿司でウマーなども、店の数だけ味も違うわけで、本当にあきませんでした。あ、一応省内の食堂もたまには(忙しいとき)行っていました。
外をあるき、動くことによって昼食でようやくエンジンがかかってくるかんじでしょうか(←遅い・・)。
当時0時過ぎ退庁はざらでしたので、18時〜20時ごろ他の係の面々が退庁するのを横目に「お疲れでした〜」と言いながら係長とせっせと深夜まで仕事に励まなければならなかったからです。したがって昼からの12時間が仕事の時間という感覚でした。

仕事は、ざっと、本当にざっと電話応対(国民からの苦情もといお叱りの処理、県政令市からの疑義照会等)、予算事務、補助金事務、補助金交付要綱、審査会のセット、各種会議のセットといったところでしょうか。
まあ係や課によって所管事務は異なるのでなんとも言えませんが、少なくともとなりの係よりは事務がトホホなくらい多かったです。

電話がない夜に業務を進めることもしばしばでしたし、そんなときにかぎって国会で待機になったり、他局に説明にいったりと右往左往してました。

それでも終電で帰るころには明日はこれしてあれして〜等々考えながら帰っていました。

終電でも金曜など日によっては満員となることもまれではなく、そんなときは席が空くのをねらいすましていたのでした。

結果的にアパート(マンションではない)には寝るだけに帰っていました。
たま〜にタクシー券を使えることがあり、そのときはまあ朝方まで仕事なのですが、電車では味わえない深夜の首都高速を流し目で見ながら帰ったものです。

前述した研修生と係員の話は次回。