深夜のサイレン

昨晩(AM1:00前後)、けたたましいサイレンが1分ほど続き、防災無線により火災発生の放送があった。私はたまたま起きていたが、どれだけの住民が気づいただろう。

普段生活していると、おそらくこの手の情報についてあまり関心のない方が多数でおられるはずなので何も気にならない(気づかない)ことが多いと思われる。

もちろん、私自身も奉職するまではこうした情報提供が自治体から行われていることすら無知(あるいは無関心)であった。

最近ちまたで緊急地震速報の運用について取りざたされている。しかし、実はこうした火災という最も「身近な地域の」防災情報のほうがより普遍的な必要性が考慮されるべきではないだろうか。これは、従来のインフラを生かしながら新たな情報インフラも活用するという方法ととっていない自治体には耳痛い話しだろう。新たな情報インフラである携帯電話やインターネットによって、こうした無線放送は憂き目にあっている。つまり「いらない」と。
以前財政担当課に在籍したいた時も、ニュータウン内に防災無線を設置する/しないですったもんだした。新興住宅地では、家や住民が「はりつく前」に設置してしまえばいいという担当者の説明だったのだが、(予算的な問題や施設整備ということは別にして)住民への事前説明や意見聴取を伴って情報化を推進するべきではないかという方向で収束した。ここでも旧態依然とした情報インフラはいらないのではないかという議論も並行していたが。

防災無線での放送に関しては、今でも「何を言っているのか聞こえない」「うるさい」という苦情を頻繁に頂戴する。

防災無線であるため、ある程度の「うるささ」も必要なのだという反面、そうした行政の「所与」の行為に対して許容できない住民が増えているのも事実である。地域の情報を伝播することは、情報機器が多様化した現代こそ困難であることをもっと認識すべきだろう。

これらの現実を目の当たりにするにつけ、よく言われる協働とははたして可能なのかという疑問が常に台頭する。

当然、こうした活動によって行政と住民との関係が良好に保たれている地域があることも事実であり、承知している。

が、そこには行政の熱意と住民の思いが共生した地域に対する明確な意味づけが出来ていることが前提となるだろう。

地域情報化という考えを思いめぐらせて1年半くらいだが、情報化の真の意図は、まさにこの社会的相互作用としての行政と住民の理解と学習をベースとした地域づくりの「ツール」に他ならないことが求められるべきである、とおぼろげながらわかってきた。

・・・防災無線を仮に町のHPで緊急速報です、と流してみて、果たしてその効果はいかほどだろうか。こうしたことに定量的分析を行うのは少々難しい気もするが、無線放送が地域社会においてその役割を担っていたころと大きく異なる社会環境に照らして、現在新たなツールを見いだすことが必要なのは言うまでもない。

情報化というとマクロな見方をしがちであるが、地域のことを可視化する情報化は、極めてミクロな視点に立って、きめ細かな仕様を設計することが肝要だ。

ミクロな地域デザインの集合体が、果たしてこの先「市町村」という基礎自治体の体をなしているかははなはだ疑問だが、それはまた別の話であり、地域のデザインを情報化を手始めに考えるのは、自治体に課せられている「責務」ではないだろうか。