行政学と行政

ジーンとレイブによる正統的周辺参加論では、「発語と実践は同義」という(解釈をした)。

共同体での「発語」は、次第に片言から標準語、そして方言へと過程を経て自分の「ことば」となる。こうして十全参加になっていく。

しかし、発語によって共同体の成員となったはずの学習が、表面的な正統性を与えるときがある。
これは、ことばを学んだのではなく、「話しかたを学んだ」ということのようだ。

正統的周辺参加により状況的学習を正しく実践のなかで獲得していけば、題記のように、行政学を学ぶのではなく、「行政を学ぶ」のである。

実はこうした意図しない実践は、結構多い。



自治の現場でも、我々は精緻な法規によって執務を行っている。

一方で、生活実践には程遠い「法律や条例」に縛られることもしばしばである。


これは、自治の現場では意図しない実践ではないのか?

本来住民のために行う行政が、行政学を実施しているのではないか。

以前国の省庁に赴いていたときよく「汗をかけ」と言われていた。しかし、汗は外、つまり国民に向かってかいているものとは遠いものだった。

住民、あるいは国民の目線で。

このフレーズが寒々しいコピーに完全にならないように、私達はもっと注意すべきだ。