人と地域と情報

10年後の自治体の「情報」に関する周縁環境は、社会全体の情報依存割合(電子的なツールを介しての)に比例して大きくなっていき、現在の数倍になっているかもしれません。

「どこでも、誰でも、いつでも」が今社会(政府?)が必死に作ろうとしている「人と情報」のシンビオシス1.0ですが、その先にはシステムと人々が生活する『場』をあえて創らなければならない2.0というステージが待っていることになりそうです。

自治体の中にある地域に限って言えば、最近の市町村合併を経てその『地域』という感覚は、以前にもまして薄れてしまったように思います。地域住民は、よほどのことが無ければ地域というイメージを自らの認識として形づくることが出来なくなっているのではないでしょうか。それは既に現在、合併により拡大した地域の範囲や、昔から住んでいない人がひっきりなしに入れかわる状況などからも明らかです。

そしてもはや普遍化してしまった感のある「地域の再生」は、地域とは何かをもっと深く、先をみて考えるべきことだったように思います。

いま、再生できるほどの地域はいかほどあるのでしょうか。

そして、再生の先は地域をどう生きながらえようというのでしょうか。

「まちづくり(地域づくり)」は今でも都市計画という面から語られています。美しい「街並み」、整然とした古い「佇まい」、まっすぐで綺麗な「道路」。

我々はもちろん物理的な領域で生活しています。が、その物理層を形作っているのは、やはり「思い」や「愛情」によることろが大きいと感じます。
美しい景観が保たれている街並みは、物理的に綺麗な建物よりも、綺麗にしようとしている住民の「思い」が結果的に作り出しているに他ならないのではないでしょうか。

そんな「思い」を抱く根源としての生きいく『場』、生活する『場』こそが、それぞれの人々が持つ「地域」というイメージであり、プラットフォームであり、自ら作り出す「地域の範囲」であるのです。

地域コミュニティが希薄化している、とよく耳にします。

「コミュニティの希薄化」とはどういうことでしょうか。

単純に、地域の人々の間にかつてあった「信頼の糸」が、だんだんと解れてきていて、一枚の布をつむぐように密接だったその距離感も、次第に遠ざかっていて、離れれば離れるほど隣人の顔は見えなくなっていき、比例するように情報は少なくなっていく。
こんなところでしょう。

しかし、「希薄化した地域コミュニティ」を活性化させようと今自治体が懸命に行っていることは、いささか的外れのようです。

コミュニティを活性化するには、そこにある情報、膨大な情報を取捨選択してコミュニティに自ら視覚可能にすることで、ようやく歩きはじめることができそうです。

でも、まだこのあたりが自分の頭の中でも「すっきり」しません。

地域と情報と人を上手く紡ぐ方法が編み出せると、「自治体シンビオシス」は、1.0から2.0へと移行できるはずです。

すっ、と刀が鞘に納まる感じ。

まだまだ鞘はでこぼこのようです。