10年後は想像ができません

今日は大学の後輩の結婚披露宴があり、先ほど帰宅しました。

披露宴は厳かに、かつ無事終了し、二人の幸せそうな笑顔は招かれた私たちにもそのうれしさが十二分に伝わるほどの威力でした。

彼らはキリスト教式での結婚式を挙げたのですが、そういえば、出席した記憶にあるだけでもほとんどが教会(のような会場)での式です。神前式は基本的に親族のみ列席するため、当然出席していないため、かもしれないのですが。

はたして現在どれくらいの夫婦がどちらで挙式しているのか??と、ふと疑問に思いました。(ちなみに私は神前式を行いましたが)

すると、
 2006年度調査での挙式形式の全国平均比率は、キリスト教式が65%、
 神前式・人前式(じんぜんしき)共に16%であった。
 −ウィキペディアより−
という結果が。

う〜ん、圧倒的にキリスト教式の勝ちですね。

日本人はなぜキリスト教式の挙式を行うのでしょう。

かつての日本は、神や仏を意識した生活様式を大切にしていました。どんモノにも神はやどり、神社は大きいものから小さいものまでいたるところにありました。今でも田舎(とはどこ?)には小さな神社がそこかしこに残っています。そんな神社に祭られた神を、地域の住民が皆で奉り、感謝の気持ちを表して清め、一生懸命守ってきました。
結婚披露宴も、自らの居宅を宴会場とし、地域のみんなで盛大に祝っていたのです。地域のつながりは必然的にこういった神社を介して自然と出来ていました。

しかし、戦後のアメリカ(キリスト教)的生活様式の浸透はかなりの速度で日本社会を蹂躙し、その結果、挙式の数字にも表れるほど日本独特の考え方が薄らいでいるように思います。
結婚披露宴を自宅で行うところは、ごく少数になっているとのこと。核家族化し、狭い家に大勢を招くことが物理的に不可能であることを差し引いても寂しい現実です。
結局、結婚しても、そのことを地域が知る機会はほとんど無いといってもいいでしょう。
神前式が減っていくと、同時に、地域の「まとまり」「連帯感」は無くなっていくことになりそうです。

地域という意識は、昔々は意識せざるを得ないものでした。それは、そこで生まれ、そこで暮らし、そこで死ぬ。これを何代も続けながら、先祖を敬い、その地を離れても「ここが私の生まれたところ」という強い思いがあったからに他ならないでしょう。

今、地域を感じることは、本当にないに等しいといえます。地域という概念そのものがかつてと大きく変わってしまったこと。生活文化や生活様式、けして狭くなくなってしまった「地域」。

自治体がしている仕事は、何なのでしょう。「地域」のためとはどういうこと??

合併が盛んに行われた結果、新しい自治体のうたい文句には、必ずこの台詞があります。
「隣接する○○村と××町は、古くから地理的、文化的なつながりがあり、広域行政においても事業を一緒に行ってきた経緯がある・・・」
どこだって隣町とは「つながっている」のですが。
隣の隣はやっぱり隣。
今の地域感は、どうしても行政区としての地域に偏りがちですが、そもそも行政が創った地域自体、行政の都合のいいように掛け合わせただけのものです。

明治の自治体は万を数えます。それだけ「地域」は多様だったのに、財政的平準化を理由として、確固たる地位を保っていた「地域」は次第に大きく形を変え、広くなりすぎた地域に人々はアイデンティティをもてなくなっているのではないでしょうか。

その反動かどうかはわかりませんが、Webの世界では、仮想地域といったものが流行し、逆に多様な人々(決して「住んでいる人」に限らない」)がたくさんの様々な「地域」を作り出しているようです。

10年後、地域の「形」は一体どのような姿を我々に見せるのでしょうか。
人々が「創り出した」地域は、一層のアイデンティティを放ちながらきっと現在の地域よりも活き活きとした「形」を見せてくれるに違いありません