道具としての職階

係長や課長といった「ポスト」は、当然組織のマネジメントを円滑に行うためのツールであることは承知している。

マネジメントを最適化するために、適材適所といった人員配置が綿密な計画に基づいて実施される(はず)。

ただし、これは組織が大なりのダイナミクスであるかもしれない。

とかくポストにこだわるのが公務員の悲しい性のようだが、いかんせん、こだわるだけの内容を伴わない人間が多いのが実情のようだ。

人的資源の乏しさや、限定的なポストの量的課題、あるいは政争の具となっているところもあろう。

ただ、一つ言えるには、どんなポストであれ、その属人的要素に大きく左右されてしまうことだろう。優れたポストに「優秀な」人材が登用されることは、もちろんマネジメントでは当然のことであろうが、そうはいっても否であることのほうが多いことはきっと行政では多々あるようだ。

課長や係長といったポストは、階層を維持するための「あて職」なのか?係や課をミクロにマネジメントできなければ、組織としてマクロな成功への布石は有り得ないと思う。

自治体では、こうした概念ではなく、悲しくも年齢によって、次々に、そしてぐるぐるとポストは交代してゆく。
そこには管理能力といった基本的な指標も見えないようである。

私もそうだが、いわゆる「失われた10年」「就職超氷河期」に就職した層にしてみれば、こうした無計画ともいえる組織の体裁に疑義を感じるものが多いのは、深く深〜くうなづける。

よく話すのは「あと10年我慢しよう」という「合言葉」である。
これが消極的な積極論であることは間違いない。ただし、そこまで自治体の財政など諸要因が存続に寄与できるリミットまでもってくれれば良いのだが。

そこがすこぶる不安なのである。
そして現状のなんともいえないやるせなさ。
仕事に対する意識の乖離。
そして薄給との板ばさみ。

公務員のワーキングプアも我々の世代から始まるのかもしれないと戦々恐々としている。
首をすくめながら、はやく時間が経てばいいのに、と願うわが身の悲しさ。

10年後、希望に溢れて入庁したころの気持ちを再び持っていることができるだろうか。