知識社会?

現在の社会は一体何社会なのでしょうか。

かつて、社会資本が農産物(生きるために最低限必要な食物を生産することであったため)だったころは、社会全体がコメや野菜を生産するために社会全体を設計し、「公共」の領域は、田畑の監視、治水灌漑などをもって公共事業と整理していました。

その後の産業革命によって、社会資本が工業製品に依存するようになると、社会もそれにあわせ大量消費大量生産を担保するために、物理的インフラストラクチャの構築を目下の命題とし、道路橋梁、線路といった工業製品のスムースな流通を助けるために「公共」が担ったものこそ、今も世間をにぎわす「the・公共事業」であり、土木工事や設計といった耳慣れた言葉で説明が可能な公共事業が跋扈する社会、すなわち工業社会が長く続きました。

1990年代から顕著に見られる「情報化」の動きは、あっという間に社会を席巻し、社会資本を「モノ」から視覚不可能な「関係性」すなわち「人間同士の絆、信頼の束」に変えようとしています。
ソーシャルキャピタルが社会資本となった社会は、何社会でしょうか。
モノに大きく依存しない、情報によって社会を設計しえる社会。情報のみでは社会は構成できないので、「人」を介してようやく社会は成立すると考えると、人が情報をもって生み出すものこそ、「知識」であり、すなわち「知識社会」が今最も言葉で説明するに適切なキーワードになるのではないでしょうか。

「知識社会」では、今までの公共事業にとって変わる「公共事業」がなくてはなりません。
公共がその社会を創造するために必要な要素こそ、公共がかかわるべき領域に他ならないからです。

人と情報が共生する知識社会において、情報は既に膨大な量的爆発を起こしつつあります。多すぎる情報のなかで、人が積極的に必要な情報のみに接触し、情報を共有し、共有しながら情報から新たな知識を創造する。

これは、「学習」の課程であります。

学習することは、知らないことを学び、新しいことを作り出すことよりも、既知の情報を共有、あるいは双方向に流通して新しい知識が生まれることのほうがより真理に近いのではないでしょうか。

学習することが「人」を作ることは歴史が証明しています。

では、知識社会においては当然「人」を資本とするのですから、したがって学習のプラットフォームを創造することこそ公共の領域になるでしょう。
知識社会での新しい公共事業は、すなわち「学習の場」を創ることになるのです。

実はこのような感覚なく、情報交換・共有のプラットフォーム、場が既に創られています。
情報爆発時代は、WEBというツールを手にして様々なことを試みることを可能としているからです。

具体的には、SNSであったり、ブログも含まれるでしょう。

これらを公共の領域で上手く料理してあげると、きっとそこには人々が集う、人々が主体の、人々が情報を享受しあう「場」が創れるはずです。

「場」によって学習した人々によって知識社会そのものが底上げされることが、公共事業の大きな課題になることは間違いなさそうです。

知識社会は実はもう始まっています。

今までに無い量の情報が空間を行き交い、そんな情報の波におぼれないように、公共はいままでと同様に公共の領域から人を「創らなければなりません」。

我々は、学習するプラットフォーム造り、新しい公共事業を真剣に考える岐路に立っているのです。